AI翻訳台頭以前の翻訳会社の経営は、基本的には「経営者とその指揮命令下にある従業員」vs.「フリーランス翻訳者」の相互不安依存構造の上で微妙なバランスを取り続けるゲームだったが、AI翻訳という技術革新が短期間にこの基本構造を刷新してしまい、現在は経営・翻訳・技術の三すくみ状態になっていると思う。以前は翻訳会社にとってITは周辺的な要素であり、ITの導入や運用で失敗しても「せいぜい」業務効率と従業員の士気が落ちる類の課題だったが、いまやIT活用の上手下手が誇張ではなく翻訳会社の存続を左右する状況になってきている。 新技術とその影響を考察するうえでは、戦争の歴史は教訓に満ちている。19世紀後半、ビスマルクとモルトケにひきいられた小国プロイセンは「参謀本部・電信・鉄道」というイノベーション三点セットを組み合わせた新システムを武器にナポレオン三世ひきいる大国フランスを打ち負かしてドイツ第二帝国を誕生させた。しかしプロイセンのこの軍事的成功は、電信や鉄道という技術だけで実現されたものではなかった。 実際、1870年のフランス陸軍にはすでにプロイセンのニードル・ガンを性能で上回る後装ライフル銃があったし、ナポレオン三世は新兵器の重要性をよく理解して新式ライフル銃の生産を急がせていた。それでも、フランス陸軍上層部は伝統と実績のある従来の戦術を変更する必要を認めず、旧来の戦術に組み込まれた新兵器はついにその本領を発揮することがなかった。 新技術はそれが存在するだけではその潜在価値を発揮できず、かつて軍事教練を発明したマウリッツや、参謀本部を駆使したモルトケのように、その新技術の本質を深く理解した人物が歴史の表舞台に登場することによって、はじめてその本領を発揮する。
この歴史の教訓は今日のAI翻訳という新技術にも当然にあてはまると思う。
次にゲームを変えるのは誰だろうか?
参考 ウィリアム・H・マクニール『戦争の世界史―技術と軍隊と社会―』(中公文庫、上下巻)
(初出『JTFジャーナル』#305 2020年1/2月号の記事をもとに改訂しました)