AI翻訳が下訳として産業翻訳業界に普及するのにともない、機械翻訳(以下MT)を下訳として利用することに対する批判も問題提起され続けている。私の理解でMT批判の論点を整理すると、第一は従来翻訳よりも安くポストエディット(以下 PE)を発注しようとする一部の翻訳会社への異議申し立てであり、この批判はおおむね妥当だと思う。一部の翻訳会社が、「MTの品質が上がったのだからPEの単価は下がるだろう」という判断、というか性急な願望から、然るべき翻訳工程の変更や品質要件の再定義をせず、短絡的に翻訳者に単価切り下げを求める事例もあると聞く。怒った翻訳者がMTへの批判(に仮装された一部の翻訳会社への非難)を展開する事情は理解できるし、上司である経営者と発注先である翻訳者のあいだで板挟みになって苦しむ現場のコーディネーターには本当に同情する。 MT批判の第二の論点は「PEをやると翻訳が下手になる」という主張であるが、こちらについても主張の動機は理解できる。訳文を自分の内側から産みだす従来の人間翻訳と、まずMTの出力を見てそれを修正するPEとでは、訳文完成に至る思考プロセスが異なり、PEを何万回も繰り返すことで訳者の言語感性が変容する可能性はきっとあるように思う。長く異国に住む人の言語感性がいつのまにか母国の母語話者のそれとずれていくのと似ている。この主張の背景には、自分の言語感性がそれとは異質の言語文脈(MT、異郷、翻訳メモリ...)にさらされ続けることで変容(破壊)を強いられることへの不安または嫌悪がある。
私の考えを書くと、ソシュールが看破したように言語に絶対基準はなくただ一般規約があるだけで、社会的要因にもとづく書き言葉(エクリチュール)の言語規範(ノルム)の急変は過去にいくつも事例がある(たとえば明治維新にともなう日本語の変容)。このたびのMTの浸透もまた、たぶん世界規模でエクリチュールの変容をもたらす。仕事で大量にMT 出力を読むポストエディターは、キャズム理論にみたてればこの変容のアーリーアドプターであろう。
一般言語感性が変容する結果、〈上手な翻訳〉の共通了解もまた変化する。この変化に対して、一部の経営者は性急であり一部の翻訳者は慎重なのだと考えればわかりやすいと思う。
(初出『JTFジャーナル』#300 2019年3/4月号の記事をもとに改訂しました)