中世ヨーロッパ社会はカトリック教会に支配されていた。当時の教会は統治機構であり、聖職者の多くはラテン語の聖書を読めず、姦淫と略奪に精出す者まで出る始末。ウィリアム・ティンダル(1491?-1536)はオックスフォードで教育を受け、エラスムスが1516年に刊行した新約聖書に影響を受ける。その聖書にはギリシャ語の原文が併記されていたのだ。当時の教会は教皇の権力を神が定めたことをその正統性の根拠としていたが、誰もが聖書を読むことができればその真偽を自ら確かめられる。無知な聖職者たちとの議論を通じてティンダルは聖書を誰もが読める言語に翻訳する必要を確信する。 司教に聖書の英訳を申し出るが拒絶されて大陸にわたると、辛酸を嘗めながら新約聖書を英語に翻訳。1526年にはその英訳がイングランドに地下輸入される。当時の英語は書き言葉として未熟であり、ティンダルの英訳は今日の英語の多くの表現のもとになっている。訳語としてcharity(慈善)に代えてlove(愛)を、church(教会)に代えてcongregacion(会衆)を、have penance(告解する)に代えてrepent(悔い改める)を用いたティンダルは教会の権威と伝統(=既得権)に壊滅的悪影響を及ぼす危険人物とみなされて異端の罪で逮捕され1536年に処刑される。旧約聖書のヘブライ語から英語への翻訳は志半ばにして終わった。 ヘンリー8世が英国のすべての教会に英語の聖書を備えるよう命じたのは二年後の1538年。そのときはじめて認可された英語の聖書はティンダルの翻訳を元にしていた。1611年の欽定訳聖書の大部分もティンダル訳の流用と言われる。その後、大英帝国の領土内の宣教師は自分たちの最も基本的な布教道具が地元の言語に翻訳された聖書であることに気づき1804年に英国外国聖書協会が創設され欽定訳聖書が各国語に翻訳されることになる。 この少文をティンダルと同時代人ジョン・フォックスの『殉教者列伝』が伝えるその言葉で閉じる。「神の恵みによってあと何年か生きられるのであれば、牛に犂を引かせて畑を耕す少年がいまの教皇より聖書に詳しくなるようにしてみせる。」ウィリアム・ティンダル
参考文献 (この他にウィキペディア) (1) 山岡洋一『翻訳とは何か 職業としての翻訳』日外アソシエーツ (2) デイヴィド・ダニエル著・田川建三訳『ウィリアム・ティンダル ある聖書翻訳者の生涯』勁草書房
(初出『JTFジャーナル』#308 2020年7/8月号の記事をもとに編集しています)